AIをエーアイと読んだ日

ドラマを見ていて、クレジットに「主題歌AI」とあった。

もちろん、アーティストのAIさんのことだ。すごくいい曲だし、彼女の歌声には力強さがあって好印象を持っている。

しかし文字面を見た時、とっさに「エーアイ(人工知能)」と読んだ。

一瞬、疑問を持ち、次の瞬間には読み間違えに気づいた。が。

 

いずれ人工知能が曲を作る日が来るんだなと思った。さらにはもしかして、AIさんってホントはエーアイなのでは!?という馬鹿げた妄想も頭をよぎった。自分でもよくわからないことが咄嗟に飛び出してくる。人間の考えることは面白い。

 

人工知能が様々な業種に進出してくると、人間のやることが無くなっていく。それを恐怖と受け取る人と、楽しみにしている人と、人間の側にもいろんな人がいる。

私も最初は「恐怖」を感じた。

なぜなら、私自身がおそらく人工知能に取って代わられる側の人間だからだ。

私が今までに従事してきた仕事は、サービス業や事務職などで、どれもいまや人工知能にした方がいいとされている職業ばかりである。

いい年なので、これから爆発的に芸術の才能を開花させるなんてことはないだろうし、人工知能に負けない分野での活躍をする気力もない。

もし人工知能と勝負をしたら、1秒も経たずに負けが決定する。だから怖いな、と思った。

 

でも、人工知能の方は人間と勝負をする気なんてサラサラないだろうし、万が一にも彼らが本気で人間を敵とみなしたら、私だけじゃなく地球上のほとんどの人間が勝てないだろう。

ということは、人工知能を恐れているのはナンセンスだ。そして恐れている時間が非常にもったいない、と思うようになった。

だって、人間がやっていることをエーアイがやってくれるのだとしたら、現在のGDPは維持したままで、人間の時間に余裕ができる。人々は会社で仕事をする必要が無くなり、会社は人件費が抑えられて利益が増える。法人税が増加して税収が増え、公共サービスが無料になる。公共事業の人件費が減るので受注金額が減少し、国庫が減らない分を新しい団地を作ったり住宅援助金が出たりするかもしれない。子供の育児補助金も出るだろう。

教育や住宅費、医療福祉が無料になれば、その分人々の生活の固定費が縮小して他のことに資金を回せるようになる。

人は自分の興味のあることに時間をかけることができ、理想に燃えて事業やサービスを始める人も増えるだろう。

必要な人へ必要なサービスが行われるようになり、人々の満足度が高まる。資金をやりくりする必要が無くなれば、娯楽や趣味にお金をかける人も増えて、経済は活性化するし、事業は儲かる。法人税や事業税がさらに増える。

 

なんだ。いいことづくめじゃないか。

人工知能が早く普及すればいいな。

 

 

ただし、この仮説には大事な条件がある。

人工知能によってもたらされた利益を一部の人間が己の私利私欲のために溜め込まないことである。

 この世界はどうだろう?

 

意味と目的は違うのである。

人生の意味を考えたことがある。

 

人はなぜ生きるのか?生きることにどんな意味があるのか?

なーんて考えても、答えは見つからなかった。

意味がない人生なんて、必要じゃないと考えた時期もあったが、だからといって「生きない」ことを選択することは出来なかった。

だから、意味のない人生を生きるしかないのかと絶望した。

 

しかし。だ。

意味はなくても目的はあるんじゃないか?

 

生きる意味はわからない。でも、生きる目的ならある。

私の場合は、「親より先に死なない」ことが生きている目的である。

理由は簡単で、それ以外に親孝行らしいことができないからだ。

私が産まれたた時、父も母もこの子が元気に育ってくれれば、それだけでいい。と思っただろうから(確かめたことはないけど)、生きていればそれだけで親孝行だと思う。

産まれた時にはそう思ったけど、それだけじゃないとか言い出す親もいるのかもしれないが(そして、うちの親はそうではないと確信があるわけではないが)、そんなのは親の勝手なので無視だムシ。

欲を言えば、結婚とか孫の顔とか、老後の面倒とか、もう少し裕福であれば旅行とか、そういう親孝行の方法もあると思うが、それは主に私の性格により無理だと判断した。

だから、とりあえず死ぬ順番だけは守ろうと思っている。

 

だがしかし、今の世の中、意味のないものというのは肩身が狭い。

効率とか生産性とか建設的とか進化とか、そういう言葉がそこらじゅうに溢れていて、それに該当しないものは、くだらなくて無意味で必要のないものだと位置づけられる。

そういう時世に浸っていると、自分の人生がまったくくだらなくて無意味で必要のないものに思えてくるものだ。

それが辛くて、できることなら解脱したいと思った。

ちなみに解脱は仏教用語だが、私は仏教徒ではありません。

 

でも、解脱することだって意味があることではない。というか、そもそも意味のある生というのはどういうものだ?

「意味」という言葉を辞書(三省堂国語辞典第七版)で引くと

  • ことば、記号などがあらわす内容
  • ことば、おこない、できごとなどについてその中にふくまれる なかみ、わけ
  • ねうち
  • かくれた内容をあらわすこと

などがある。

では「意味のある人生」とはどういうものか、上記をあてはめて考えてみよう。

…………………………よくわからない。

分かる人いる?いたら私に分かるように教えて欲しい。

なんとなく分かるとしたら、「ねうちのある人生」ってことくらいでしょうか。

値打ちのある人生ってなんだよ。値打ちがなきゃ、人生じゃないのか?と喧嘩を売りたくなるような文章になる。

 

では、目的のある人生とは?

「目的」を辞書(同上)で引くと

  • 何かをするときの めあて、めざすところ

とある。

つまり「何かを目当てにしたり、何かをめざす人生」という訳だ。ここに書かれている何かはなんでもいい。

モテるでもいいし、可愛くなるでもいい。賢くなるとか、人の役に立つとかでもいいし、逆にバカになりたいでもいい。とてもわかり易いし、優しい。

 

私には目的がある。先にも書いたように死ぬ順番を守るということもそうだけど、自分が死ぬ瞬間に「それなりに面白かったな」と思えるようにしたい、という目的が。

 

私の人生には意味はないかもしれないが、目的はある。

 

逆説的だけど、目的のある人生なら、生きる意味があるのかもしれない…。まあ、なくてもいいんだけど。(どっち)

 

 

ダイエットのこと

太っている。

もちろん、私自身のことである。

 

肥満の基準がどういうものか、時代によって変化することは当たり前に大前提として、現代の「肥満」について調べてみた。

 

”肥満 基準”というワードで検索したら、関連の有りそうな団体のHPがあった。

日本肥満学会/JASSO

一般社団法人 日本肥満症予防協会

日本肥満学会/JASSOによると「肥満」と「肥満症」に分かれるらしい。

肥満は太っている状態のことで、肥満症とは疾患であり、治療が必要ということみたい。なるほど。

では、肥満症と診断される基準は?

 ①BMI≧25

 ②肥満関連疾患のうち、1つ以上当てはまる、または腹部CTで測定した内臓脂肪面積≧100㎠

上記の2つに該当すると、肥満症らしい。

ちなみにBMIは体重kg ÷ (身長m)2です。

 

というわけで、上記の例に従って計算してみた………うん。

 

 

とにかく、ダイエットが必要なことはわかった←

しかし私は意思の弱い面倒くさがり屋で、これをやると決めても3日も続かないくらいで、これまでに何度もダイエットに失敗してきた。

継続できない理由の一つに結果がすぐに出ない。ということもある。

もちろん、ダイエットとはそういうものだと知ってはいるけど、それにしてももう少しご褒美的に目に見えて欲しい。

数日ダイエットを意識するとほんの少し変化しないこともないのだが、すぐに元に戻ってしまうのだ。まるで形状記憶合金のように。

洋服などに加味されているととても便利なものだが、人体には必要ない合金だ。特に肥満体には。

もしやこの体質は自分の意志などとは関係のない、遺伝的なものだったりするのでは?と一縷の望みをかけ、数年前に肥満遺伝子を調べられるというキットを取り寄せたりした。

結果はβ3AR遺伝子(-)UCP1遺伝子(-)β2AR遺伝子(+)

解説「タンパク質の代謝が早く筋肉がつきにくい。一度太ると痩せにくい」

 

えっ、ダメじゃん…

 

遺伝子云々はまったく意味不明なので、私に聞かないでください。

興味のある方はこちらへ

DHC遺伝子検査↓↓

https://www.dhc.co.jp/goods/goodsdetail.jsp?gCode=40020

 

私の場合、普段から気をつけて、太らないようにしないといけなかったらしい。それを早く言ってくれ。知らなかったよ…。

 

しかし、そんなことを言っても後の祭り。

人生は今が一番若い!何を始めるのも遅すぎるなんてことはない! という先人たちのありがたい言葉を信じて、日々励むしかない。

というわけで、人生何度目かのダイエット生活を始めます。

結果はまあ、1年後くらいに…。

(これだからダメなんだっていう説もある)

 

 

猫のようにいきる

大層なタイトルだな、と自分でも思う。

 

ここ数年、私生活で大きな変化があった。

体調を崩したり、会社を辞めたり、パートになったり、在宅ワークをしたり。

そろそろ二度目の適齢期も近づいてきて、新しい体に生まれ変わるのかもしれない。

人間のことには興味があるけど、人や社会と交わることはあまり得意ではなくて、だからこうやって文章を書いている。

世の中の文章を書いている人(生業にしている人も趣味の人も)が私と同じ様であるとは限らないけど、違うとも限らない。

目に見えそうで見えないものを時には、感じたり、掴んだり、逃してしまったりしながらいきている。

手に届きそうな距離に真実らしきものが転がってきたり、誰かの手の中にあるものがそれに見えて羨ましかったり。でもそれが真実かどうかなんてわからないし、と嘯いてただ眺めているだけだったり。

 

そんな風にいきていきたい。猫みたいに。

食べて、寝て、遊んで、見つめて、そしていきる。

猫のように。